エッセイ —

推すとは、「たまたま」をひいきすること

主題 社会 ・表現 小径 関係・視点

電車で目の前の席があいたので、そろっと腰をかけて、スマホをポケットから取り出したとき、ふと、Be my Girlの曲が聴きたくなり、Kindleを開くはずだったのに、YouTubeを開いていました。そのとき私は、ああそうかなるほど、自分はこのバンドのファンなのか、と気がつきました。

Be my Girlは、私がたまたま仕事を通じて知った新進気鋭のインディーズバンドで、もちろん音楽のレベルは高いしカッコ良いのですが、正直に言えば、仕事で関わっていなかったら、普通に素通りしていたかもしれません。将来きっと売れると思いますが、このタイミングで彼らを知ることはなかったかもしれません。

世の中には、レベルの高い音楽も、魅力的なバンドも、ほかにたくさんあり、自分が間接的に関わっているということが、彼らを推したいという気持ちの底上げになっているのは、間違いありません。

推すから人生の一部になるのではありません。たぶんその逆で、きっと、彼らがすでに自分の人生の一部になっているから、推したいのだと思います。

思い返してみると、似たような選び方はレストランを決めるときにもしていて、私はLINEでつながっていて、パーソナルな会話もできるマスターやシェフのいるお店を選びがちです。もちろん、どのお店も美味しくてサービスも素晴らしいのですが、そのエリアで最高レベルなのかと聞かれれば、正直、わかりません(なぜなら、比較していないので)。

でも、そんなことはどうでもいいのです。

お店の雰囲気、そこに集まるほかのお客さん、そしてマスターとのご縁、そのきっかけまで含めて、私はそのお店を選んでいるのだと思います。

何を応援するのか、どうポジションをとるのか、ということを考えると、これだけ情報が豊かな時代ですから、AIに調べさせれば、いい情報も悪い情報もなんでも出てきますし、なんなら工夫すれば自分に流入してくる情報まで操作できてしまいます。

じゃあ、最後、何を決め手にすればいいのかというと、結局は、「ご縁」なのではないでしょうか。

たまたま個人的なつながりがあったり、自分と重なる出自とか境遇だったり、たまたまソーシャルで流れてきたり、たまたま駅前でライブをしていたところを通りかかったり、そんな些細な「たまたま」で感情が動き、その対象だけが、無数の候補のなかから少し前へ出てくるのです。

Be my Girlの場合、私にとってのきっかけは仕事で、仕事で関わったから曲を知り、その曲が好きになり、そして電車のなかでも、何回も聴きたくなったのです。

ロジックは正しさを確かめるためのもの、レトリックは人を説得するためのもの、と一応は区別されてきました。しかし、現代では、そのロジックさえ、すでに感情によってなされた選択をもっともらしく説明するためのレトリックとして使われることが多い、というのは、もはや常識(?)です。要するにロジックなんてものは、すべて後付けです。

そうなってくると、重要なのは、手段としてのレトリックやロジック以前の、より根本的なところで、どう感情が動くのか、そしてそのきっかけが何になるかです。

これは音楽や飲食に限った話ではなく、最近のビジネスマンを見ていても、誰にも嫌われたくないというか、万人からOKをもらえる選択肢を探すあまり、調べれば調べるほど何がよいのかわからなくなり、消耗している人もいるようにも見えます。ビジネスというものは、究極的には、誰か、あるいは何かの犠牲のうえに成り立つものです。

すべてを公平に見比べ、誰からも否定されない答えを探し続けていたら、ひとつを選んで応援するところまではなかなか行けませんし、そもそも、そんなパーフェクトな選択など存在しないのです。

こうして、今日も私は、シメを麺にするのか、あるいは雑炊にするのか、そもそもシメは無しのほうがいいのではないか、延々と悩み、消耗していくわけです。

了
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