エッセイ — 野本遼平
未来という酸っぱい葡萄
母は、もう八十歳近いです。本当に、価値観が合いません。
そもそも生きてきた時代が違うので、ジェネギャといえば、それまでなのかもしれません。
とくに母は、現代と未来に対して、否定的です。
「こんな時代に生まれて、これから生きていかなければならないあなたたちは不幸だ。昔はよかった。」
会うたびに、念押しするように、石に彫り込むように、必ず言います。最近の日本は、政治も、経済も、皇室も、テクノロジーも、音楽も、芸能人も、若者も、ことごとく質が低下しており、とにかく駄目なのだそうです。
そして私は、「いや、いまも十分にいい時代だし、これから自分たちがよりよくしようとしているんだよ」と答えます。すると、「そりゃ、今しか知らないから、比較できないでしょう」「もう取り返しがつかないところまで来ている。この世は終わった」と返されます。
まあ、たしかに、比較はできません。戦後の高度成長や、バブル景気は、経験していません。ただ、自分たちがこれから生きていく世界を「もう終わった」と断じられるのは、シンプルに不愉快です。
しかし、なぜそういう発想になり、なぜわざわざそういう言葉を発してしまうのかは、少し冷静に考えてもいいような気がしてきました。少なくとも、感情的に反発するよりは生産的です。これまでさんざん感情的に反発して怒り狂ってきてもう疲れてしまった私が言うのだから、間違いないでしょう。
一つには、嫉妬があるのかもしれません。身も蓋もないですが、いわゆる「酸っぱい葡萄」です。
母自身、年齢的に、これからの未来を長く生きられないことはわかっているでしょう。自分には手が届かない未来なのであれば、それはきっと酸っぱい葡萄であり、昔よりも悪いものなのだと考える。そういう発想があるのかもしれません。
もう一つは、人間は自分が理解できないものに嫌悪感を覚えるのではないか、ということです。
新しいものに触れるたびに、自分のなかにある世界のモデルを更新するのは、認知的な負荷がかかります。それこそ不愉快です。外の世界が変わる速度に脳内モデルの更新が追いつかなくなったとき、その対象を「まだ理解できていないもの」ではなく、「理解するに値しないもの」として処理する方が楽です。
ただ、理解できないものを拒絶するのは、別に高齢者に限った話ではありません。我々も、そうかもしれません。
認知負荷を受け入れる覚悟と余力がなければ、我々は理解できないものを無自覚に拒絶してしまいます。新しいものを理解することは、単に知識を一つ増やすことではなく、これまで自分が正しいと思ってきたことを修正する、ちょっとした自己否定にもつながります。
新しいテクノロジーやマクロトレンドの変化が起きたときに、ビジネスの側でも世代交代が起きるのは、そういう事情もあるのかもしれません。
ここまで考えると、母を分析している場合ではなくなります。自分がこれを避けられる保証など、どこにもありません。
年を重ねていくなかで求められるのは、自分が手にすることができないものに嫉妬しないだけの度量の大きさと、新しいものを理解し続ける知的体力、そして自分の見方を否定する胆力なのでしょう。
言うのは簡単ですが、極めてむずかしそうです。
他方で、ある程度の年齢になった人間が若者言葉を使い、新しいものをわかろうとして、表にしゃしゃってくること自体が、老害として扱われる場合もあります。
これはどうやら厄介です。
「昔はよかった」と言っても、老害。若者目線で未来を語っても、老害。どのくらいの距離で、現代と未来に関わればいいのでしょうか。悩みが深すぎてメンブレしそうです。