エッセイ —

「スルー」するには、仲間が必要

主題 社会 ・組織 小径 関係・視点

白状すると、最近すこし疲れています。

タイムラインには、イーロン・マスクの新しい挑戦がつぎつぎと流れてきます。ロボットタクシー、脳とコンピュータの接続、火星移住。壮大です。AIロボットや自動運転など、彼が取り組んでいるテーマであれば、私もVCとして日本の企業に投資しています。しかし、彼が手がける事業そのものには一切関与していません。求められてもいません。

他方では、レイ・ダリオなどを筆頭に、米国中心の世界秩序・世界経済の揺らぎなどが議論されています。これはこれで、自分(というより人類?)にとってアンコントローラブルな事象ですが、とにかくこういう「知らなければ幸せ」な情報が否が応でも飛び込んできてしまうわけです。

そして、知ってしまった以上、なぜ自分はこれと完全に無関係なのか、あるいは、どうにかできないものなのか、いや無力ではないか、でも気になる、しかしどうしていいかわからない、という居心地の悪さと無力感がまとわりつきます。知らないほうが精神的には楽です。視界を絞り、一心不乱に「目の前のこと」だけのことを考えていれば、自己効力感を高められそうです。

おそらく、この疲れの正体は、見えてしまう世界の広さと、自分が関与できる範囲との釣り合いが取れていないということなのだと思います。

世界は、理論上どこまでも広がっています。一方で、私たちには身体と認知能力に制約があります。世界全体を捉え、そこで起きていることをすべて自分ごととして処理するのは、不可能です。

考えてみれば、これをわざわざ意識する必要のない時代が、長くありました。自分の村が、世界のすべてだったわけです。峠の向こうの出来事は届かず、届かないものは悩みようがありません。比較の相手はせいぜい隣の家までです。まあ、それはそれで別の息苦しさがあるのでしょうけども。

いまは違います。身の回りを囲むアルゴリズムたちが、壁の向こうにある情報を、こちらが求めていなくても勝手に運んできます。

しかし、勝手に流れ込んでくる情報すべてを引き受けることはできません。だから私たちは、自分がどこまでを舞台にするのか、どこまでを自分の問題として扱い、どこから先は「自分には関係がない」と脇に置くのか、何を重く見て、何を見なくてよいのか、を決めなければなりません。ビジネスっぽくいえば、選択と集中、でしょうか。

社会学者のニクラス・ルーマンは、複雑すぎる世界を扱えるかたちに切り詰めることを、「複雑性の縮減」と呼んだそうです。原典は読んでいないので正確なことはわからないのですが、おそらく近い概念なのでしょう。これによって私たちが救われるのは、現実逃避ができるからではありません。自分の有限な資源を、無理なく使えるようになるからです。

ただ、「ここから先は自分には関係がない」と宣言するだけでは、世界はなかなか安定しません。その線引きを支える、何かしらの構造が必要になります。情報は、勝手に入ってきてしまうので、「そんなこと、どうでもよくない?」とスルーする力が必要です。

そこで効いてくるのが、「物語」です。

物語は、私たちは何者で、何を大切にし、どこへ向かっているのかという筋書きを提示してくれます。それに沿って、どこまでが自分の舞台であり、何を見るべきなのかが浮かび上がっていきます。いや、物語に関係のない情報が、どうでもいいものとして自然にフェードアウトしていく、と表現したほうが正確なのかもしれません。

しかし、物語は、それ単体では意外と不安定です。

自分でつくった物語であれば、「これは、自分がそう思いたいだけではないか」「ほかの世界の見方もあるのではないか」などと自分で疑うこともできます。外側から新しい情報が流れ込んでくるたびに、スルーすることができず、私たちは我に返ります。物語を物語としてメタ認知した瞬間、興醒めしてしまいます。

そこで必要になるのが、物語の「共有」です。

誰かが同じ物語に頷いていると、「私はこう見ている」から、「私たちはこう見ている」へ変わります。会話や儀式や反復を通じて、その世界の見方は何度も確認され、物語は簡単には揺らがないものになっていきます。

共有は、物語を持続させる力になるのです。

戦後の「大きな物語」というやつも、物語が扱う範囲が大きいというだけの話ではないでしょう。もちろん、進歩や近代化や国家など、扱う主題自体も大きかったのはたしかですが、それが社会の骨組みとして機能できたのは、多くの人が同じ物語を共有し、社会のさまざまな場所で、その世界の見方が繰り返し確認されていたからです。

この物語の力と危うさを描いていたのが、2026年本屋大賞を受賞した朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』でした。遅ればせながら読ませていただきましたが、素晴らしい作品でした。さまざまなシーンやセリフに頷きすぎて、あやうく鞭打ちになるところでした。

この小説では、同じ物語に頷く人たちが、互いにその見方を確認し続けることで、物語が強固になっていく様子も描かれています。

宗教は、その典型なわけです。世界の始まりと終わりを定め、聖と俗という意味の勾配をつくることで、世の中で起きていることを飲み込みやすくなります。スルーできる事象も増えます。そして、教義を語り、同じ儀式を繰り返し、同じ暦に沿って集まることで、その世界の見方を共同体のなかで維持します。

陰謀論も、共有の仕組みを持っています。一人で「何かがおかしい」と疑っているだけなら、まだ一つの疑念にすぎません。しかし、同じ疑念を持つ人たちが集まり、「やはりそうだ」と互いに確認し合ううちに、単なる疑念だったものが、一つの安定した物語へ変わっていきます。

そして推し活も、物語を共有する仕組みがセットになっています。推しの作品だけでなく、ライブやイベントに集まり、ソーシャルメディアで感想を交わし、同じ出来事を目撃した記憶を何度も語り直すことで、物語が、個人の内側だけではなく、界隈全体で保たれていきます。

企業に求められるミッションやビジョンも、同様の機能を果たします。仮に「日本の〇〇を強くする」というミッションやビジョンを設定した場合、「日本の〇〇」に関係のないものは基本的に舞台から外れて、脚本にも登場しないわけです。

宗教も、陰謀論も、推し活も、MVVも、もちろん同じものではありません。ただ、自らの限られたリソースを前提に、複雑すぎる世界に一つの見方を与え、その見方を誰かと共有することで持続させるという点では、共通する構造があります。一方で、互いに頷き合うことで、その見方を疑いにくくなる危うさもあります。「物語」そのものも重要なのですが、実は、「共有」(とその反復・継続)が肝なのです。

私たちにとって重要なのは、我に返るたびに、「私たちの世界は、ひとまずここまででいい。これ以上深追いしなくていい」と、一緒に頷いてくれる誰かなのでしょう。どこまでを「私たちの問題」として引き受けるのか、そしてどこからが「どうでもいい話」なのか。それは、社会の全員である必要はなく、家族でも、仲間でも、会社でも、業界でも、界隈でもいい。誰かと共有できれば、「私」の思い込みは、「私たち」の物語になります。

了
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