エッセイ

舞台から逃げようとして、逃がしてもらえなかった話

主題 表現 小径 関係視点

先日、鈴木おさむさんの新作舞台『母さん、ラブソングです。』を観てきました。東京芸術劇場などで上演中の、田中圭さんと矢崎広さんの二人芝居です。私は映画ばかり観てきた人間です。ミュージカルはいくつか観ていますが、「ザ・舞台」のようなものは初めてかもしれません。大変申し訳ございません、正直、少しなめていました。簡素な舞台装置に、俳優はたった二人。それでどれほどのものが立ち上がるのだろうかと。

圧巻でした。もともと涙腺はかなり弱い方ですが、それにしても制御が難しいレベルで感情を揺さぶられました。内容には触れませんが、脚本も演技も素晴らしいものでした。

ただ、ここで書きたいのは作品評ではなく、帰り道から考えている「フォーマット」に関する話です。私たちは長らく、体験の豊かさは情報量に比例すると信じ、解像度を上げ続けてきました。それなのに、装置も人数も最小限のフォーマットに、だいぶ心を動かされたわけです。どうしてそんなことになるのか。

舞台論の解説は必ずどこかにあるはずですが、概説書にはあえて手を伸ばさず、鑑賞当日の身体感覚を手がかりに自己流で考えてみました。

見出した軸は、「想像の余白」と、「なまもの」性です。

まず「想像の余白」について。一方に、顔も声も風景も読者が組み上げるしかない、余白最大の小説があります。他方には、多くの情報が確定した状態で届く映画やアニメなどの映像作品があります。舞台はその中間のように見受けられました。舞台セットと、実際の人間の声と身体があるぶん小説より補助線は多い一方、場面も時間の経過も、かなりの部分が観客の想像に委ねられます。一人ひとりが、舞台として提示されたフレームの中で自分の世界を組み立てているわけです。

タイトルが示すとおり、本作の骨格には「母」がいます(ここまではネタバレにならないはず)。「母」という言葉に、何の感情も持たない人は、ほとんどいないでしょう。親愛であれ、葛藤であれ、摩擦であれ、不在であれ、それぞれの関係が余白に立ち上がります。感情をゼロから作るのではなく、観客がすでに持っている記憶を借りてくる設計です。だとすれば、要諦は余白の制御にありそうです。埋めすぎれば、想像の働く場所も当事者意識も遠のいてしまいます。逆に、絶妙な塩梅の余白が、鑑賞者の主体的な参加、つまりは「のめりこみ」と「当事者化」を促すのでしょう。

しかし、余白だけの勝負なら小説が最強のはずです。もう一つの軸が、「なまもの」性です。

映画や録音物は「固定」でき、何度でも再生できます。他方、舞台はあえての「なまもの」です(もちろん、上演や演奏はもともと一回性の出来事で、固定する技術が後から来ました)。二度と再生できないことを、観客は本能的に知っています。汗や唾が飛んできそうな距離で同じ空気を吸い、数百人と場所と時間を同期させる一体感。演者から届く情報の種類と圧力は、画面越しとはまるで違います。つまり舞台は情報が少ないのではなく、ハイライトされる情報の種類が違うのです。

それを身体で思い知ったのが、ラストのクライマックスでした。いい年して人前で泣くのは恥ずかしいので、怒涛のセリフが、はい、ボクシングだったらレフェリーストップが入りそうなくらい怒涛のセリフを、真正面で受けてしまわないよう、意識を別の場所へ逃がそうとしたのです(作り手の皆さんには失礼な話ですが)。

できませんでした(レフェリー仕事しろ)。

映画なら、意識を画面の外へそらして、作品とまあまあ距離を取れます。Netflixであれば一時停止ボタンを押せばすみます。ところが、目の前で人間が鬼気迫る演技をしていると、どうにもそれができない。これはある種の「感染」なのだと思います。演者の身体に宿った感情が、空気の振動を介してこちらの身体へ感染してきます。防疫が間に合いません。物語の「引き込む力」は脚本のものですが、観客を「逃さない力」は、この感染力、つまり演者の身体のものなのかもしれません。

しかし、この作用は一方通行ではないはずです。客席の笑いも、すすり泣きも、張り詰めた沈黙も舞台へ返り、そのときの演技を変えています。エンタメ社会学者の中山淳雄氏が著書『エンタメビジネス全史』で解説するとおり、興行の際立った特徴は「生産と消費が同じ瞬間に成り立つ」ことにあります。客のノリ次第で、作り手が届けるものもその場で変わります。演者と観客は、反応を返し合いながら、その日の舞台を一緒に完成させているのでしょう。

こうして考えてみると、「想像の余白」と「なまもの」性は、二種類の「未完成」だと言えそうです。虚構の世界は描き切られておらず、観客が自分の記憶と想像で埋めます。上演そのものも「系」として閉じておらず、双方向の反応が、その日の舞台を組み上げます。観客は、内面的には作品を自ら仕上げており、しかも、存在的には作品に組み込まれているため、作品の外に立てません。

だから、逃げようとしても逃げられない。

この二種類の未完成のうち、固定によって原理的に失われるのは、後者です。

20世紀のコンテンツ産業の土台には、「なまものの固定」という発明があります。中山氏は同書で、ライブの入場料と投げ銭で食いつなぐその日暮らしだったミュージシャンが「アーティスト」になれたのは、レコードと著作権のおかげだったと解説します。固定すれば、生演奏を繰り返さずに大量複製でき、一単位あたりの費用を大幅に下げられるのです。固定化こそが最大の商機であり、編集も、繰り返しの再生も、劇場に来られない誰かへ届けることも、その恩恵です。このあたりの話はソフトウェアも同様なのですが。

ただし、固定とは体験をそのまま凍らせることではなく、出来事のうち、その時点の技術で保存できる成分だけを写し替えることです。声や表情は残せても、その場の観客の反応が演技を変え、その演技がまた観客を変える、双方向の回路までは保存できません。レコードかCDかMP3か、みたいな音質論争は氷山の一角で、落ちるのは音域だけではありません。一回性、身体性、場所と時間の同期、双方向性といった、体験の「うまみ」成分が、これまでの固定の工程ではこぼれ落ちます。いわば体験のフリーズドライで、軽くて日持ちはするものの、お湯で戻しても「かおり」は戻り切らないのです。

そう思うと、音楽産業は示唆的です。2014年には、国内音楽コンサートの推計チケット販売額が、CDなど音楽ソフトの生産額を上回ったそうです(Apple to Appleの比較ではありませんが)。複製できないものの価値が相対的に上がりつつある、一つの表れでしょう。過去の問いが「なまものを、いかに固定して売るか」だったとすれば、これからは、固定の工程で失われてきた「うまみ」や「かおり」に注目する必要がありそうです。

そしてまあ、こうして文章に固定した時点で、いろいろな成分が失われているのでしょうけども。せめて、逃げ損ねた痕跡くらいは残しておくこととします。

目次へ戻る