論考 — 野本遼平
本家は、たいてい、マイペースでユニーク
私は現在、スタートアップや新興産業に近いところで金融の仕事をしていますが、この界隈で語られることは、だいたい同じです。
アメリカではこうだ、中国ではこうだ、なんならヨーロッパではこうだ。それに比べて、日本は足りない、意識が低い、遅れている。だから改革しなければならない。
まあ、その一部は、ポジショントークや営業トークでもあるのでしょう。「遅れている場所」を見つければ、そこへ介入する理由が生まれます。
文化人類学者のエスコバールは、途上国の人々が「低開発の意識を内面化する」過程を、「開発の発明」「開発の専門化」「開発の組織化」という三つの戦略に分けて説明しています。近代社会のモノサシによって何が「異常」なのかを定め、専門家がそれを問題として認定し、専門組織が解決のために介入する。そうして「低開発状態」が、もともとそこにあった自明の現実であるかのように現れ、当事者もそれを克服する必要性を内面化していく、という話です(関根久雄「開発と文化」、桑山敬己・綾部真雄編著『詳論 文化人類学』)。
以前この箇所を読んだとき、私は「資本主義とは、需要(開発)の発明ゲーム」とメモしていました。改めて振り返ると、極めて悲しいメモです。
日本を途上国になぞらえたいわけではありません。ただ、何かを「足りない」「遅れている」「異常だ」と名づけ、それを当事者にも信じさせることで、介入するための需要をつくる構図はよく似ています。そうやって「低開発」を開発することが、ビジネスチャンスになる。これは、たぶんかなり普遍的な商法です。
「US」や「シリコンバレー」のブランドやつながりを掲げるアクセラレーター、投資家、メディアの言説も、発信する側の意図とは別に、この「低開発商法」と似た作用を持つことがあります。そこに悪気がなくても、自虐や後追いを定着させる副作用は無視できません。
もちろん、個別の指摘が間違っていると言いたいわけではありません。日本に足りないものはあるし、変えるべき制度もあるのでしょう。
しかし、「遅れている」と言うとき、その遅れを測るモノサシはどこから来たのでしょうか。それは誰が定めたものなのでしょうか。そして、それは本当に正しいのでしょうか。GDP、リスクマネー、時価総額など、まあ、いろいろあります。もちろんそれぞれに意味はありますが、指標は本来、何かを測るための道具ですし、実は穴だらけだったりもするわけです。それを鵜呑みにして、数値が小さいから足りない、順位が低いから遅れていると騒ぐ人が少なくないように見えます。
そもそも「遅れている」という言葉は、全員が同じ道を、同じ方向へ進んでいることを前提にしています。先にいる国と、後ろにいる日本、という整理です。日本もいずれ、その国がいる場所へ到達しなければならないという前提です。同じモノサシで、同じ完成形を目指すということです。しかし、それは要するに、ラットレースです。
世界は本来、分業で成り立っています。国際貿易も、互いに違うものをつくり、違うものを持ち寄るためにあったはずです。比較優位という考え方の前提にも、それぞれの違いを生かすことで、世界全体の生産性を高めるという発想があります。あらゆる国が同じモノサシで同じ最良を目指したら、違いから生まれる価値を、自分たちで捨てることになります。
東京が、日本が、本当にシリコンバレーのようになったとき、それは果たして世界にとって幸福なのでしょうか。
もはや丼の中が「ユニバース」なラーメンも、ミリ単位の差分でクオリティが変わるお鮨も、『チェンソーマン』も『鬼滅の刃』も『ちいかわ』も『国宝』も、AdoもYOASOBIもフルッパーもイコラブも(これ以上続けてもキリがないのでやめますが)、たぶん生まれません。少なくとも、シリコンバレー的な世界をそのまま再現した場所から、あのような文化や表現が生まれるとは、私には思えません。
カルチャーとプロトコルが違うんです。
だとすれば、日本がシリコンバレーや中国のモデルをコピーすることを、誰が本当に求めているのでしょうか。
隣の芝生はいつも青い。それは間違いありません。隣を見るなと言いたいわけではありません。ただ、それを青く見ていること、そして、その芝生を良しとするモノサシまで相手から借りていることは、少なくとも自覚したほうがいいでしょう。
第二のシリコンバレーなんて、いりません。なぜなら、シリコンバレーはすでに存在するからです。
必要なのは、第二の東京をつくるぞ、第二のジャパンをつくるぞ、と欧米人や中国人に言わせるほどの突き抜けたユニークネスと気概ではないでしょうか。
そして、そのユニークネスは、カネをいくら投下しても、大枚をはたいても、簡単には手に入らないものでなくてはなりません。資本の量だけで競えば、日本より厚い資本を持つ相手はいくらでもいるからです。
日本に何年も暮らして、ようやく身につくセンスや感性。海外の人が、いつかそれを手に入れたいと渇望する。それが、その土地ならではの空気とカルチャーです。こちらは、それを渇望させるまで研ぎ澄まさなければならない。研ぎ澄ます、というとちょっと爽やかすぎるかもしれません。どろどろに煮詰めないといけないのかもしれません。日本に移住して、そこで起きているムーブメントの一部になりたい。そう思わせないといけない。深圳やシリコンバレーとは異なる、固有のうねりとねばりを日本で生み出さないといけません。
憧れや分析の対象となる先行者を追いかけ続けることで、エネルギーが湧いてくる人もいます。もちろん、そういう人がいてもいい。しかし、自らが下位互換であると宣言して誰かを追いかけるのではなく、マイペースでユニークネスを極める人もいないとダメでしょう。シリコンバレーや深圳の人々を日本に惹きつけるほうが尊い、という考え方もあっていいはずなのです。
そして、当たり前ですが、本家が、自分の後を追っているだけのやつに惹かれる理由はありません。
本家は本家をリスペクトします。そして本家は、たいてい、マイペースでユニークです。
後追い頑張り型と、ユニークネス本家型。どちらもあっていいはずなのに、後者の言説を私はまるで耳にしません。私が身を置いている金融の界隈が異常なのかもしれませんが。
日本はユニークだ。カネでコピーできると思うなよ。ここに来い。