エッセイ — 野本遼平
我々は、揺らいでいる|『我々は宇宙人』を観て
光栄にも試写会に招待いただき、門脇康平監督による『我々は宇宙人』を観てきました。
公開前の作品ですから、当然ながらネタバレには気をつけなければなりません。
とはいえ、気をつけすぎると、とてもよかったです、くらいしか言えなくなり、それではさすがに何も言っていないのと同じなので、ストーリーには触れず、観終わったあとに自分のなかに残ったものについて書いてみます。
第一印象は、濃い、でした。とにかく濃い。
何が濃かったのかについて、最初は「人間への愛」という言葉を使おうとしました。ただ、たぶん、それでは少し不正確です。愛されているのは人間だけではなく、人間を取り囲んでいる世界全体であり、そのなかに漂う、何気ない記憶の断片のようなものなのだと感じとりました。
しかし、そうやって書くと、恐ろしく陳腐で野暮です。映画の感想としてはありふれすぎていて、書いているこちらも少し恥ずかしい。なんなら原稿から一度はdeleteしました。
ただやはり、この映画がとても映画らしいなと思うのは、言葉にすると陳腐になってしまうものを、圧倒的な情報量のまま伝えているからです。私がうまく言語化できていないことは、映画としてはむしろ成功なのでしょう。こちらが言葉にした途端に取りこぼしてしまうものが、映像のなかには濃密に残っているのです。
とくに印象的だったのは、人物と風景の描かれ方です。人物は、手描きのスケッチのような、揺らいだ線で描かれています。それに対して景色は、SNSでバズってたまに流れてくる「写真かと思いきや実は手書きでした」の絵画のように繊細で鮮やかで艶めかしい。
その違いを見ていると、人間の揺らぎや迷いといったものが、説明されるよりも先に、本能的に伝わってきます。そして、そんな儚い人間を、美しい情景が取り囲んでいる。
これはおそらく、対比ではなく、包摂です。人間と世界が向かい合っているのではなく、揺らぐ人間が、この鮮やかな世界のなかにいる。そして、そのこと自体が救いなのかもしれません。
ところが、不思議なことに、観ているうちに、映像の見え方が少しずつ変わっていきます。揺らいだ線で描かれた人間のほうが、むしろ画面のなかでリアルなものとして浮かび上がってくるのです。もちろん、人物は動いていますから、自然と目に入るという単純な理由もあるのでしょう。ただ、それだけではないような気がします。細部まで鮮やかに描き込まれた風景よりも、揺らいでいる人間のほうが、かえってオーセンティックなのです。人間は、揺らいでいるからこそ本物で愛おしいのではないか。少なくとも私は、この作品の根底に、そんな感覚が流れているように思いました。
もう一つ、この映画は、フラクタルというか、相似形が印象的な映画でした。まったく同じではないのに、どこか同じ形をしたものが、少しずつ形を変えながら繰り返されていきます。
映画のなかで何かが繰り返されると、つい「あ、あの伏線が回収された」と理解したくなります。でも、この作品で感じたのは、そういう仕掛けの鮮やかさではありません。謎解きではありません。世界や人生そのものに相似形があり、私たちは、それが良いのか悪いのかということではなく、そういう因果とか包摂のなかで生きているのだ、ということでした。
同じところへ戻っているようで、まったく同じではない。似ているけど、何かが違う。違うことが起きているようで、どこか同じ形をしている。進んでいるような、進んでいないような。それでもカルマを背負って流転を生きていくしかない。
お約束したとおり、ストーリーには一言も触れていません。それでも、これだけ勝手ながら受け取ってしまうものがあるのです。
そして、『我々は宇宙人』というタイトルです。エピソードから直接的に連想できる意味もありながら、もう一段、メタな場所から作品全体を眺めたときに、「そういうことか……」となります。もしかしたら、英題の『We are Aliens』のほうが本家なのかもしれない、と思ったりもしています。
制作期間は5年とのことでした。なるほど、たしかにそれだけの時間をかけた濃度でした。観終わってしばらく、「この世は、私たちは、生きるに値する」という感覚が、じわじわとみぞおちあたりから染み入ってきます。
公開されたら、ぜひ劇場で観てください。
とてもよかったです。