論考 — 野本遼平
細分化されゆくナラティブ——企業経営は「都市型」システムへ?
数年前、ANRIの中路さんが書いた「ナラティブだけが人を動かす——スタートアップはなぜナラティブを紡ぐのか」を読み、あれこれ考えたことがあります。
企業には物語が必要だ、といわれます。自分たちはどこから来て、何に抗い、どこへ向かうのか。事業計画の数字だけでは人は動かないので、その数字を引き受ける理由を物語として示す。とりわけ、まだ実績も資産もない組織にとって、ナラティブは未来を先に共有するための、ほとんど唯一の道具です。
ただ、その道具は、少しずつ効きにくくなっているようにも見えます。
経営者が渾身の思いで語った「私たちの物語」を、全員が同じ温度で受け取るとは限りません。共感する人もいれば、仕事は仕事として距離を置く人もいる。ミッションには賛同していても、人生の中心に置くほどではない人もいるでしょう。組織への忠誠心が衰えた、というだけの話ではありません。私たちが同時に生きる物語の数が、増えすぎたのです。
物語がなくなったのではない。ひとつの大きな物語が、小さな物語へと分かれ、その小さな物語も、さらに細かく割れ続けている。
だとすれば、企業は、ひとつの物語で人を束ねることを、いつまで中心に据えられるのでしょうか。
私たちは、最初から部分的な世界に住んでいる
このことを考えるとき、私は「環世界」という概念を思い出します。
ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが示したのは、生物は外界のすべてをそのまま受け取っているのではなく、自らの感覚器官と関心によって切り取られた世界を生きている、という見方でした。よく知られた例では、マダニの世界は、哺乳類の匂い、皮膚の温度や感触といった、ごく限られた手がかりからできています。人間が見ている森と、マダニが生きている森は、物理的には同じ場所にあっても、同じ世界ではありません。
人間も例外ではないでしょう。目と耳で拾える範囲が違い、経験が違い、関心が違う。同じ会議に出て、同じ話を聞いていても、見えているものは驚くほど違います。客観的な世界そのものを共有するのではなく、それぞれが切り取った部分的な世界のあいだに、言葉や制度を渡して、どうにか共同生活を成立させている。
ナラティブは、その橋の一つです。
宗教は、世界の起源、人間の位置、善悪の基準を物語として結び、ばらばらの人々に共通の足場を与えてきました。国家も企業も、規模と強度は違っても、似た働きを担います。「私たちは何者か」という物語は、見えている世界の違う人々に、しばらく同じ方向を向かせることができます。
ただし、橋は永久構造物ではありません。社会の移動性が高まり、触れられる価値観が増えれば、それまで唯一に見えた物語は、いくつかある選択肢の一つになります。ニーチェの「神は死んだ」も、単に宗教が弱くなったというより、世界全体を覆っていた一つの説明が、その独占的な位置を失った出来事として読むことができます。
これは、宗教から個人へ一直線に進む単純な歴史ではありません。大きな物語が崩れたあとに、別の大きな物語が立ち上がることもあります。細分化された人々が、SNSを通じて一斉に同じ熱狂へ集まることもある。分散と再集合は、交互に起きます。
それでも長い目で見れば、物語をつくり、選び、乗り換える権限は、制度から集団へ、集団から個人へと、少しずつ手元に降りてきました。
「一人の自分」も、すでに一枚岩ではない
しかも、細分化の終点は個人ではなさそうです。
平野啓一郎氏は、分割できない一つの「個人」に代えて、相手や関係ごとに生まれる人格を「分人」と呼びました。職場にいる自分、家族といる自分、古い友人といる自分、一人で文章を書いている自分。それらの背後に、ただ一つの本当の自分が隠れているのではなく、どれも関係のなかで現れる本当の自分だ、と考えるわけです。
この見方に立つと、一人の社員を、一つの人生目標や一つの帰属意識で捉えること自体が難しくなります。ある人の「働く自分」は会社の使命に強く共鳴していても、「親である自分」は時間の予測可能性を求めているかもしれない。矛盾しているようで、本人のなかでは、どれも嘘ではありません。
会社の物語は、憲法くらいでよい
企業のミッションやビジョンが不要になるわけではありません。共通の方向がなければ、協働は成立しにくい。ただ、それを社員一人ひとりの人生を覆う物語にまで広げようとすると、無理が生じます。
朝礼で唱える言葉と、現実の評価制度が矛盾していれば、物語はかえって白々しくなります。
会社の物語は、すべての人が同じ感情を抱くための教義ではなく、異なる物語が共存するための憲法くらいでよいのではないでしょうか。
何を信じるべきかを細かく定めるのではなく、何だけは壊してはいけないのかを定める。どこへ行くかを一つに固定するのではなく、どの方角には進まないのかを明らかにする。共通の価値観を増やすより、共有しなければ協働できない最小限の原則を、厳しく選ぶのです。
企業は、軍隊より都市に近づく
ここで思い浮かぶのが、都市です。
都市に住む人々は、同じ目的を持っていません。起業する人も、子どもを育てる人も、夜通し音楽をつくる人も、できるだけ静かに暮らしたい人もいます。住民全員を一つの使命で奮い立たせようとする都知事がいたら、かなり面倒です。
それでも都市が崩壊せずに動くのは、道路、水道、交通、法律、市場、公園といった共通基盤があり、異なる目的を持つ人同士が衝突したときのルールがあるからです。都市の魅力は、目的の一致ではなく、別々の目的を追う人が高い密度で共存し、ときに予期せず出会うことから生まれます。
企業も同じ方向へ進むのだとすれば、経営の仕事は、物語を上から配ることから、複数の物語が活動できる「場」を設計することへ移ります。
道路にあたる共通基盤は中央が整えます。資本、ブランド、顧客接点、データ、採用、法務といった、各チームが個別につくると重複するものを共有財として提供する。各活動が生んだ利益の一部を、その場と基盤の維持に拠出する仕組みは、「税」に少し似てくるかもしれません。ただし税である以上、何に使ったのかを説明する責任も生まれます。
そして自治を認めれば、チーム同士の利害はぶつかります。顧客をどちらが担当するか、共通ブランドをどこまで使えるか、人材をどう移すか。必要なのは、衝突をなくすことではなく、衝突を処理する手続きです。偶然の出会いを生む場と、揉めたときに決める場の両方がなければ、都市は単なる雑居ビルになります。
所属の境界も、今より曖昧になるでしょう。正社員か退職者かの二択ではなく、副業者、業務委託、卒業生、投資家、顧客までが、濃淡の異なる市民として場に関わる。出入りできることは、結束の弱さではありません。退出できる人が、それでも戻ってくることのほうが、囲い込まれた忠誠より強い場合もあります。
このとき、経営者の比喩も、預言者や司令官から、都市計画家や市長へと変わります。すべての建物の用途を決めるのではなく、道を通し、余白を残し、危険な独占を抑え、まだ名前のない活動が生まれる条件を整える。自分の物語を語る力より、他人の物語同士のあいだを編む力が問われます。
同じ物語ではなく、同じ場所にいる
要するに、必要なのは「一つにすること」でも「ばらばらにすること」でもなく、ばらばらのまま関係できる構造なのでしょう。
企業がこれから問うべきなのは、「全員にどの物語を信じてもらうか」ではなく、「どんな物語を持つ人たちが、ここで一緒に何をつくれるか」なのかもしれません。
同じ物語の登場人物になることは求めない。ただ、同じ場所にしばらく集まり、互いの仕事が思いがけず接続されるようにする。
企業の役割が物語を語ることから、物語が出会う場所をつくることへ移るなら、それは組織の弱体化ではありません。むしろ、細分化された時代において、組織がもう一度、力を持つための方法なのだと思います。
初出:note(2023年10月26日)
改稿:2026年8月16日