論考

国家は「人間関係」で動くのか?属人的な外交と、スタビライザーとしての官僚制

主題 社会組織 小径 関係環境

先日、ある方から、企業間の提携だけでなく、国家間の交渉でも、最後の最後にものをいうのは、フロントに立つ人間同士の関係であり、「信頼」や「情」なのだ、という話を聞きました。

企業についてなら、これはすぐに納得できます。企業は合理的な主体のような顔をしていますが、実際に意思決定するのは感情をもった人間であり、その人間が率いている以上、企業もまた、かなり感情で動くからです。

しかし、国家もそうなのだと言われると、理屈としてはわかるのですが、どこか引っかかります。民主主義という、安定しているようでかなり不安定な仕組みで選ばれ、しかも数年後には交代しているかもしれない一人の人間と、別の国の一人の人間が信頼し合えるか、あるいは単に気が合うかによって、国際関係の行く末まで左右されてよいのだろうか、と思うからです。

属人性、などと書くと少し学術的ですが、要するに「あの人がいるから大丈夫」という、町内会の祭りの実行委員会と同じ原理です。その原理が、核兵器を保有する国家間の関係にも適用されているという話なわけです。

しかも、民主主義は、控えめに言ってかなり気分屋な仕組みです。ジャック・アタリは『2030年 ジャック・アタリの未来予測』で、民主主義の社会は「長期的な課題に対処できない、不人気な決定は下せない」うえ、「ましてや将来世代を考慮できない」と書いています。ほとんど悪口のような書きぶりですが、任期と選挙を前提にする仕組みが、長期的で不人気な決定と相性がよくない、という点は否定しにくいでしょう。

それでも、国家間の関係は、首脳が替わるたびにすべてゼロからつくり直されているわけではありません。人と人との関係は切れたり、冷えたり、ときには急に親密になったりしますが、その下では、それまでに交わされた合意や条約の運用、事務方同士のやり取りが続いています。

ウィリアム・H・マクニールは『世界史(上)』で、古代メソポタミアの帝国が統一と安定を達成した背景に、「官僚制、法、市場」という三つの手段の発達があったと述べています。それらによって、「見知らぬ者同士が、結果にある信頼を持ちながら相手と取引できる」ようになったのだそうです。

つまり、官僚制は、信頼の対義語ではなく、特定の人間同士の信頼に頼らなくても済む範囲を広げる仕組みだったわけです。王の顔を知らない辺境の民でも、任命状を携えた役人となら取引ができ、相手の人格を信じられるかどうかとは別に、役職と手続きに従えば、ある程度同じ結果を期待できます。人格への信頼を、役職と手続きへの信頼へ置き換える。いわば、信頼の工業製品化です。

そう考えると、官僚制が安定していて、簡単には動かないという性質は、少なくとも欠点だけではありません。首脳同士の関係が冷えても、政権が替わっても、実務のレベルでは、同じ書式の文書が同じ手続きで流れ続ける。

これはなかなか、崇高な仕事です。

宮台真司氏は『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』で、ウェーバーを引きながら、「平時は政治権力内の重要な決定の大半を行政官僚がする。だが非常時には政治家が重要な決定をする」と述べています。その整理に従えば、行政官僚は既存の仕組みのなかで利得最大化を目指し、政治家は環境が大きく変わったときに、その仕組みそのものを覆す。両者は潜在的に対立しますが、むしろ、その摩擦まで含めて役割分担なのでしょう。

政治家が環境の変化に応じて大きく動き、その下で官僚制が、政治家が替わっても残るものを引き受ける。属人的な外交が機能できるのは、どうも、その下に非属人的な実務が敷かれているからです。

齋藤ジン氏は『世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ』で、支離滅裂に見えたトランプ政権にも、省庁間の調整プロセスを経た緻密な対中戦略文書が存在していたことを紹介しています。「問題は、トランプがこうした戦略を粛々と追求するのに必要な自己規律を欠いていたことです」と著者は書いていますが、その戦略自体は、政権交代後もバイデン政権にほぼそのまま引き継がれました。トップの人格や振る舞いが大きく変わっても、その下でつくられた戦略や実務まで、すべてが一緒に消えるわけではないのです。

昨今は、政府のリーダーシップに期待が集まり、とりわけテクノロジーや新興産業の後押しをめぐって、官僚ももっと大胆に、政治家のように、あるいは起業家のように振る舞うべきだ、という話をよく聞きます。私は、これについては、どちらかというとちょっと慎重です。

もちろん、官僚に行動力や工夫が必要ない、という話ではありません。ただ、官僚機構が自ら政治的な目的を定め、既存の仕組みそのものを書き換える主体になることは、個々の官僚が前向きに仕事をすることとは別の話です。

スタビライザーの価値は、簡単には動かないことにあります。維持を担うはずの層まで賭けに出れば、システムは動く部分を二重に抱え、残る部分を失ってしまいます。しかも官僚は、政治家と同じように有権者から直接委任され、選挙で審判を受ける立場ではありません。誰が賭けを決め、誰がその結果を引き受けるのかという線まで、曖昧になってしまいます。

人と人との信頼がなければ、国家間の新しい関係が始まらなかったり、交渉が前へ進まなかったりする局面は、確かにあります。しかし、その信頼は、人が替われば簡単に失われます。だからこそ、そこで生まれた合意や交換を、人が替わったあとにも残しておく仕組みが必要になる。人間関係がものをいうことと、人間関係だけで動いていることは、同じではないのです。

そう考えると、「官僚的な仕組みでは変化に対応できない」というおなじみの批判も、以前ほど単純には聞こえません。本当に変わるべきところで変わらず、社会の足を引っ張ることは、もちろんあるでしょう。ただ、変化にすぐ対応しないこと自体は、少なくとも一面では欠陥ではなく、官僚制が引き受けている役割であり、その動かなさによって、辛うじて残っているものもあるのだと思います。

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