論考 — 野本遼平
「ロジカルできれいな整理」との付き合い方
空白のスライドを見ると、線を引きたくなりませんか?私もかつてはそうでした。
左右に分け、上下にも分ければ、四象限ができます。散らばっていた話を四つの箱に収め、箱に名前をつけ、矢印で因果関係を結ぶ。すると、それまで捉えどころのなかったものが、急に扱える対象になったような気がします。
法律家として文章を組み立てていた頃から、構造化は身体に染みついています。投資について考えるときにも、まず市場、競争、組織、財務と箱をつくってきました。話し合いの論点が揃い、抜け漏れが見え、他人に伝えやすくなる。ロジカルに整理することは、疑いようもなく便利です。
ただ、きれいに片づいた資料を眺めていると、ときどき不安になります。
これは、本当に理解が進んだのでしょうか。それとも、理解できる形に変形しただけなのでしょうか。
整理は、編集である
宮野公樹氏は『問いの立て方』で、単純には分けられない対象を無理に配置し、整理した気になることの危うさを指摘しています。
そもそも、整理とは情報をそのまま移す作業ではありません。何かを残し、何かを捨てる編集です。
しかも、そこには必ず整理する人の視点が入ります。同じ出来事でも、「業務効率」の問題として整理するか、「働く人の尊厳」の問題として整理するかで、見える原因も、選ばれる解決策も変わります。分類の名前は単なる表札ではありません。その後の議論が通る線路です。
にもかかわらず、図が整っていると、その線路が誰によって敷かれたのかは見えにくくなります。整理されたものだけが議論の俎上に載り、箱からはみ出したものは、存在しなかったことになる。整理には、思考を助ける力と同時に、問いの範囲を静かに決めてしまう力があります。
地図には、現実にあるすべての石や匂いや起伏は描かれていません。省略するからこそ、目的地までの道が見える。ところが、地図を便利に使っているうちに、私たちは地図の外にも土地が続いていることを忘れます。
たとえば投資メモをつくるとき、いちおう、起業家の話を「顧客課題」や「競争優位」といった項目へ移していくのが一般的だとおもいます。会議で検討するには、そのほうが都合がいいからです。しかし、実際は、話している途中の長い沈黙や、同じ言葉を何度も言い直したこと、その人がそこだけ妙に早口になったことのほうが、実は整った回答よりも、本質に近いこともあるわけです。
説明すると、失われるもの
マイケル・ラドフォート監督の「イル・ポスティーノ」では、
君が読んだ詩を別の言葉で表現できない。詩は説明したら陳腐になる。どんな説明よりも、詩が示す情感を体験することだ。詩を感じようとすればできる。
という名言もあります。そのまま感じとらなければ正確に物事を理解することができない場合があるはずなのです。また、映画監督スタンリー・キューブリックも、
一本の映画や演劇が人生の真実を本当に語ろうとするなら、それは安易な結論や紋切り型の思想に陥ることを避けるためにも、間接的な手法を取らなければならない。伝えようとする視点はありのままの現実に重ね合わせた上で、観客の意識の中にさりげなく注入されなければならない。真実を捉えた有意義な思想とは、概して多面的であるため、それ自体が真正面からその存在を知らしめることはない。(1960年「サイト&サウンド」)
と言っています。我々は、「直接的」なアプローチで物事の一面だけを切り取り、「安易な結論や紋切り型の思想」で満足してしまう危うさと隣り合わせなのです。
決して言語化できない、定量化できない、しかし深層レベルにおいては確実にそこにある根源的なもの。身体レベルで知覚できる、ざらざらした手触り感。それを四象限に(無理やり)プロットしたり、数字で表現したり、一般的に通用する汎用的な言葉に置き換えてしまうことは、「安易な結論や紋切り型の思想」への第一歩かもしれません。
「分かりやすさ」が高く評価される現代においてこそ、この危うさに自覚的でなければなりません。起業家も、少なくとも社内向けには、一般的に通用するフレーズ(ディープテックとか、フィジカルAIとか、ロールアップとか、AIエージェントとか、AI SaaSとか。)に安易に頼ってしまうことを避けなければなりません。自分なりの、ざらざらした表現にこだわる必要があります。
遠山正道氏の「新種のimmigrations」の企画計画書は、一枚のスケッチだといいます。例えば、企業のミッションやビジョンは、もし適切な言葉が見つからない場合には、イラストで、なんなら映像で表現してもいいのではないでしょうか(さすがに事業計画書はスプレッドシートで作ってほしいですが)。
それでも、直接説明するほど対象から遠ざかることはあります。
「なぜ、この店にはまた来たくなるのか」「なぜ、この人の話だけは聞いてしまうのか」。明るさ、声の速さ、椅子の間隔、積み重ねてきた時間など、答えを構成する要素は無数にあり、互いに絡み合っています。それを三つの成功要因へ還元した瞬間、説明としては強くなっても、対象そのものとしては薄くなってしまいます。
分かりやすさとは、理解の深さではなく、運びやすさなのかもしれません。
「きれいさ」が安くなった
生成AIは、この問題を新しく生んだわけではありません。ただ、「きれいな整理」をつくる費用を、劇的に下げました。
まとまりのないメモを渡せば、論点を分類し、見出しを立て、対立する二つの立場を並べ、最後には穏当な結論まで用意してくれます。その整然さには、抗いがたいものがあります。自分の頭の中にあった混乱が、数秒で片づいたように見えるからです。
問題は、AIの整理が間違っていることだけではありません。むしろ、もっともらしく整っているために、何が捨てられたのかが見えにくいことです。
曖昧な一文が一般的な表現へ置き換えられ、分類できない違和感が「その他」に入り、矛盾していた感情が首尾一貫した物語へ直される。出力は読みやすくなりますが、考え始めるきっかけだった異物まで、きれいに取り除かれてしまうことがあります。
生成AIを使わないほうがよい、という話ではありません。散らかった材料を仮置きし、自分では思いつかなかった切り口を試し、説明の穴を見つけるには、非常に便利です。ただ、AIが差し出した分類は答えではなく、数ある編集案の一つです。誰の視点から見た整理なのか。原文にあった何が薄まったのか。整った出力を、もう一度、整理される前の素材と見比べる必要があります。
だからAI時代に希少になるのは、整理する技術だけではなく、整理される前のものを手元に残しておく力、そして、整理のプロセスで何が捨てられたのかを察知する力です。
最初の線を引く前に
ロジカルに考えることを、手放す必要はありません。必要なのは、整理を真実の発見ではなく、目的に応じた編集として扱うことです。
何のための地図なのか。誰が使うのか。その縮尺では、何が消えるのか。といった問題に意識を配っておく必要があります。そして、数字の裏にある空気感や表情や沈黙を、少なくとも自分だけは覚えておくべきなのでしょう。整理したあとにも残る、ざらざらした余白を捨てないことです。