論考 — 野本遼平
フェアバリューなるもの
日本は最高です。少なくとも、消費者の目線では。
このクオリティーで、ものやサービスの値段が安い。日本で暮らしていると、ずいぶん恵まれていると思います。もちろん、海外から来て強い通貨を円へ替えて使う人と、日本で円を稼いで暮らす人とでは、見える景色は違います。それでも、消費者としての素朴な実感だけを言えば、日本は最高なのです。
ただし、経済全体から見れば、これは手放しで喜べる話ではありません。
安く買えるということは、誰かが安く売っているということでもあります。日本の企業や、そこで働く人たちが提供しているクオリティーに、十分な値段がついていない、とも言えます。
投資の世界には、「フェアバリュー」という考え方があります。その株はいくらが適正なのか。いまの市場価格は、本来の価値よりも高いのか、安いのか。さまざまな前提を置きながら、それらしい数字を算出します。
でも、本当に、環境から切り離された「本来の値段」のようなものは存在するのでしょうか。
物価も為替も変動します。円の力が半分になれば、円建ての値段が変わらなくても、海外から見た値段は半分になります。日本で提供されているものの中身は同じなのに、世界から見た価格は大きく変わる。そのどちらが、日本の本当の価値なのでしょう。
経済学の基本の基本に戻れば、値段は需要と供給のバランスで決まります。
中身のクオリティーが関係ないという話ではありません。クオリティーが高ければ、それを欲しがる人は増えるでしょう。ただし、それでも値段がつく場所は、需要と供給がぶつかるところです。どれだけ素晴らしいものでも、どこにでもあり、いくらでも追加でつくれるなら、高い値段はつきにくい。
通貨も同じです。円を持ちたい人と、円を手放したい人とのバランスによって、円の力は決まります。
複雑な話に立ち入るつもりはありませんが、金融緩和は、金利や流動性を通じて、その需給へ働きかけます。かなり乱暴に言えば、通貨の元栓の開けしめに関わっているようなものです。もちろん、元栓を開けば必ず円安になり、閉めれば必ず円高になるほど単純ではありません。それでも、金融政策は円の相対的な魅力に影響し、為替を動かす要因のひとつになります。
ほかの条件が同じなら、円安になれば、海外から見た日本の値段は下がります。その一方で、輸入コストを通じて、国内の物価には上昇圧力がかかります。同じ円安という現象が、外から見た「安い日本」と、内側で暮らす人の物価高を、同時に生むわけです。
そして、元栓はいくらでも自由に開けられるわけではありません。通貨への信認が失われれば、急激なインフレや通貨危機に至ることもあります。お金の値段もまた、お金そのものの中にあるのではなく、それを取り巻く環境によって支えられているのです。
人材の価値も、たぶん同じです。
人を値段で語るのは身も蓋もないのですが、労働市場では、待遇という形で値段がつきます。人手不足が深刻な現場では、いわゆるブルーカラーの待遇を押し上げる圧力が強くなっています。働く人たちの能力が、ある日突然高くなったわけではありません。供給が足りなくなり、需要とのバランスが変わったのです。
では、AIによって一部のホワイトカラーの仕事への需要が減れば、その待遇は下がるのでしょうか。本人の知識や能力が昨日と変わっていなくても、それを必要とする人が減れば、値段は下がるのかもしれません。
同じことは、株式にも言えます。
たとえば、2026年6月に上場したSpaceXです。株価は上場後、大きく上下しています。それでも、下がったあとでさえ、十分に高いと感じる水準にあります。
SpaceXの技術や事業が優れているから、という説明はもちろんできます。ただ、それだけではないのでしょう。Starlink級の衛星通信網と、自前の打ち上げ能力を一体で持つ企業へ投資できる上場株式は、ほかにほとんどありません。その未来を買いたい人は世界中にいるのに、代わりになる有価証券の供給は極端に少ない。少なくとも、その希少性も、高い株価を支えている理由のひとつだと思います。
投資や事業についてまじめに勉強すると、どうしても、効用や機能や付加価値から、ものの値段を考えたくなります。優れた機能があるから価値があり、その価値にふさわしい値段がつく。世界がその順番で動いていると考えたくなるのです。
でも、直接に値段を決めるのは、やはり需給です。
どれだけ素晴らしい効用があっても、それが広く普及し、簡単に手に入るようになれば、高い値段はつきにくくなります。反対に、もっと身も蓋もなく言えば、どんだけ実用上の効用がなくても、みんなが欲しがれば、ひとまず値段はつきます。チューリップの球根のように。
もちろん、その値段が長く続くかどうかは別の話です。みんなが欲しがり続けるためには、効用や希少性や、「もっと高く売れる」という期待など、何らかの根拠が必要になります。その根拠が失われれば、需要も失われ、値段も崩れます。
さらに、その根拠としての効用自体が、時代によって移り変わります。環境によっても変化します。ある時代には不可欠だったものが、別の時代にはほとんど必要とされなくなる。反対に、昨日まで誰も気に留めなかったものが、環境の変化によって急に欲しがられることもあります。
値段についていえば、すべては相対的なのです。
値札は、環境の圧縮ファイルなのだと思います。そこには、ものの中身だけでなく、誰が欲しがっているのか、代わりになるものはあるのか、どれだけ供給できるのか、通貨や制度や技術や期待がどう動いているのかといった、そのものを取り巻く環境が、一つの数字に圧縮されています。
だからといって、フェアバリューがまったく存在しない、と言いたいわけではありません。投資をする以上、何らかの前提を置いて、妥当だと思う値段を考える必要はあります。ただ、それは、ものの内部に最初から埋め込まれている不変の数字ではありません。そのときの環境を前提として、ある時点に仮置きされる数字なのでしょう。
ものの値段を考えるということは、むしろ、そのものがどういう環境に置かれていて、その環境がどう変化していくかを考えることにあるのです。
まあ、それができれば、苦労しないのですが。